短歌同人「ポストシェアハウス」

青松輝と鈴木えてによる短歌同人「ポストシェアハウス」のブログ。

ポストシェアハウス第1号一首評(3) じゃあ愛の話しましょう 崇高なからだが燃えて崇高な灰 櫛田有希

じゃあ愛の話しましょう 崇高なからだが燃えて崇高な灰

/「パーマネント」櫛田有希

 

 「愛」「崇高」というモチーフからキリスト教の文脈で捉えたくなるが、それを痛烈に拒否するシニズムに満ちた歌である。

 歌は「じゃあ愛の話しましょう」という発話から始まる。「じゃあ」とは相手の発話に対する譲歩であろうか。愛の話は、話の流れがそうなったから、あるいは相手が望んだから、どちらにせよ仕方なくするというニュアンスのもとになされる。

 愛は大文字のテーマである。古くから文学の主題に据えられ、社会運動のスローガンになり、真摯に語られてきた。しかしこの発話者にそれに対する敬意はない。愛はカジュアルに、かつ面倒臭げな態度をもって話し出される。この発話者にとって愛はカッコ付きの「愛」であるようだ。愛はいわゆる社会が語るものであり、発話者はそれを信じていない。

 そして一字空け。それに続く崇高なからだは燃えて崇高な灰になるという、この論理は二通りの捉え方があるだろう一方の例として、ノートルダム大聖堂の火災で貴重な聖遺物などが無事救出されたことが讃えられた。その裏側には、聖遺物も燃えてしまえば価値がなくなるという発想である。対して、仏舎利という例もあるためからだが燃える場合は崇高さが保たれるという発想もありえる。ここでは発話者は前者の観点を採用していると考えたい。というのも、(ここで論理が一見ねじれるのだが、発話者は崇高さもおそらく信じてはいないからである一字空けの前の強烈なシニカルさはその後も引き継がれていると考えられる。とすれば「崇高なからだが燃えて崇高な灰」というのも「愛」と同じカッコ付きの概念となる。それを発話者のシ    ニズムの結果の発話だとすれば、翻って発話者は崇高なからだは燃えてしまえばただの灰であるのに、それすらも崇高とすることへの皮肉が見られる。

 「じゃあ」のみで発話者の態度を表現すること、そして「愛」と「崇高」という抽象的な概念を一字明けの上下に置くことで繋がっているようで繋がっていないようで繋がっている一首にしていること、どちらを取ってもよく練られた歌であると言えよう。