ポストシェアハウス第1号連作評① 岐阜亮司「感情の訓練」
巧い。
たぶん本人も言われ飽きているだろうけど、岐阜亮司は短歌が巧い。
ただ「巧い」という上で気になるのは、ふだん誰かが歌会とかで「巧い短歌ですよね」と言ったときに感じられる「確かに巧いけど、巧いのと凄いのとは違うから、…ねえ?」みたいな嫌味。僕の言っている「巧い」はそういう、客観的に見るポーズで、相手の短歌を突き放す「巧い」になってしまうだろうか……?
それからの数年をかろやかに捨ててはつ雪まはりつつ燃える見ゆ
(岐阜亮司「感情の訓練」/『ポストシェアハウス』1号)
それから……、どれから……?ミステリアスな物語性の導入。
数年をかろやかに捨てて……たぶん捨てたのは作中主体だろう、数年を「僕」が捨てる、という青春的な短歌の一つの流派=センチメンタルな僕、をうまく引き込みつつ、「かろやかに」することで読者に負担を与えない行き届いた配慮。
そして初雪、まはりつつ燃える、見ゆ……①なにか結晶がその形を保ったまま回っている、燃えているようなミクロのイメージ、②(はつ雪、と、まはりつつ燃える、の間の助詞が省略されることで)はつ雪の景色とまはりつつ燃える何かが別個で存在するような、つまり、はつ雪→まはりつつ燃える(何か)という、マクロのイメージ、が同時に立ち上がって重なる……
料理と同じで、高級によくできているものは味が複雑になっている。上の一首がそうなら、連作「感情の訓練」もそうだ。
叔父さんはマックス・コーヒーを飲みつつ人生は楽しいよつて笑つた
(「感情の訓練」)
から始まる、つまり「楽しい人を眺める僕」から始まる連作は、「感情」という言葉が持つ、(感傷的な自分)という流派にみずからを位置付ける。
手に負えない白馬のような感情がそっちへ駆けていった、すまない
(千種創一『砂丘律』)
花で殴る それを感情だといへばぼくらがなんども負ける初夏
(浅野大輝)
感情を問えばわずかにうつむいてこの湖の深さなど言う
(服部真里子『行け広野へと』)
自分の短歌で自分の感情に言及すること、は、自分が強すぎて気持ち悪いと思うこともありつつ、上掲したような歌の魅力に抗えない自分もいる。短歌ってそういうものじゃない?やっぱり自分のことをうまくアピールしてナンボの文芸ですよ……
そういう複雑な気持ちにきちんと折り合いをつけながら読める工夫が『感情の訓練』には随所になされている。料亭の味だ。やはり『訓練』だけあるというべきか、
水を向ければみづ飲むやうにはしやぎだす会話になるほどねつてうなづく
(「感情の訓練」)
会話の盛り上がりを観察してみたり、
怒られてのちの大気がまるで雨後しんがう機すこし傾いてゐる
(「感情の訓練」)
怒られてみたり、と退屈させない。主体の、あるいは作者のもつホスピタリティ、やさしさが嫌味なく出ている。センチメンタルな僕、を基調としながらも嫌な感じがしない。
祝祭のあとのしづけさでわらつたわかるよこの世界のなにもかも
(「感情の訓練」)
この世界のなにもかもがわかる、ときに「しづけさでわらつて」いることは、些細なようでとても大事なことだと思う。もちろん巧い、としても、読者を喜ばせるためのポーズだとしても、その修辞が他者に向けられていることはとても倫理的だと思う。だってたぶんこの作者はもっと自己中心的に書こうと思えば書けますよ。
この連作評ではずっと「巧さ」の話をしてきたし、「巧い」だけではない、と言いたがる人が常にいることもよく理解しているが、そうやって、語れるレベルでつねに読者を思いやれること、は、作者にとって最大の目標ではないか?そして評が語れることもその「巧さ」だけだと思う。
僕の信仰では、神や倫理も技術のレベルに属する。そしてこの連作には、なにやら神聖なところに触れるくらいの「巧い」があるんじゃないか。
降り立てば湖面のやうな京都駅にバニラ・コークの香はたちこめて
(岐阜亮司「感情の訓練」/『ポストシェアハウス』1号)
(2019年4月26日 青松輝)