短歌同人「ポストシェアハウス」

青松輝と鈴木えてによる短歌同人「ポストシェアハウス」のブログ。

ポストシェアハウス第1号一首評(5) 不安などすべてはなって鳥にして一秒 教わったとおりできた 杉本茜

不安などすべてはなって鳥にして一秒 教わったとおりできた

/「光源旅行記録」杉本茜

 

 まず全体の流れを確認したい。「不安など」という導入から「すべてはなって」とひらがなに開かれ、さらにそれが鳥になるというのは「不安」という概念から字面のうえでも意味の上でも外へ開いていくグラデーションをよく表現している。そこまでは流れのある開放感だが「一秒 」が挟まれることにより、読み手は自動的に一秒休止することになる。これも非常によく練られた構造であり興味深い。この一字空けは二つの役割を兼ね備えており、「一秒」という語を本当に読みの上でも実現する役割に加えて、よくある使い方でもあるがその前後の意味的連関を和らげている。この場合は、その前は概念的でどこか御伽噺的でもある描写であり、その後ろには「教わったとおりできた」というカジュアルな独白が続いている。「教わったとおりできた」がカジュアルであると述べたが、どこおか幼さも感じる。それは「とおりできた」がひらがなに開かれている点と、人にものを教わりそれができたと表明する行為に幼さがあるためだろう。表記の面について先に述べたが、ひらがなと一字空けに工夫が見られ、うまい歌である。

 次に意味について検討しよう。一字空けの前は教わった内容であると考えられる。「などすべてはなって」という言葉遣いは文章語的であり、そのまま発されたセリフではないことからカッコではなく一字空けを選択したと思われる。主体はその指示を自分の言葉で再構成し、それを心のうちで唱えながらやってみて、それができたというのが全体の趣旨であろう。「不安などすべてはなって鳥にして一秒」という指示は先にも述べたようにどこか現実的でない部分があるが、最後の「一秒」がそれを上回る説得力でこれはなにかの手順であると感じさせる。

 「不安」「はなって」「一秒」という手順を教わるということからは、認知行動療法的なものを感じる。不安を和らげる手段として、ある一連の動作を習慣にすることはよく指示されることである。そのように読むと不安から開放され、「できた」とつぶやく主体の安堵がより切実に伝わってくる。

 

評:鈴木えて