短歌同人「ポストシェアハウス」

青松輝と鈴木えてによる短歌同人「ポストシェアハウス」のブログ。

評論(1) 青松輝は「分からない」か? 鈴木えて

 青松輝の評は難しい。それに今回取り組むのは、ひとえに自分(鈴木)が青松のファンであり、その最新作が載っている「ポストシェアハウス」を一人でも多くの人に読んで欲しいからである。ポストシェアハウス同人の仲の良さを感じてホッコリしながら読んでいただきたい。

 「彼の歌は読者との『共有』をとことんさせない点において非常に異質だと思うのだ。オリジナリティのある世界観や語彙、ポエジーによって介入を『拒む』のではなく、平易で淡白な言葉や言い回し、世界を作りながらあらゆる手段で読者から『逃げる』。読者が歌を自らに引き寄せようとする手からするりと逃げていく。」とは石井大成さんによる青松に対する評論の一節だ(短歌同人誌「ひとまる」temae-miso 3月https://hitomarubito.wixsite.com/tanka-hitomaru/single-post/2019/03/28/temae-miso-3月 2019年5月3日閲覧)。ここでは〈いつまでも忘れないよと抱き合って僕ら手の中には抹茶塩〉(「ワープを学ぶにあたって」『第三滑走路 2号』)を例に、「青松が読者の手をすり抜ける技巧のひとつが、特殊なモチーフの挿入によって歌の広がりを急速に閉じる点である。(中略)抹茶塩は置いておくとして、それ以前の提示が、その叙情が『空っぽ』であることに注目したい。何を注いでもよい、既製品のような器。だから読者は急に抹茶塩を出されると、その急な世界の特定にどうしてよいかわからない。しかも抹茶塩は共感しようにもできない。」と指摘されている。

 しかし同時に、「抹茶塩もサイズ的に『なくはない』し、手→汗→塩みたいな連想も繋がっている。」という記述があることにも注意されたい。この評論では、この「連想が繋がっている」ことに焦点を当てて青松作品を鑑賞する。

 

 ホットケーキ持たせて夫送りだすホットケーキは涙が拭ける

雪舟えま「吹けばとぶもの」『たんぽるぽる』)

 

 不勉強でそれに名前が付いているのか分からないのだが、短歌には上の句で意外性のあるフレーズを提示し、それを下の句で説明するというテクニックがあるように思われる。雪舟えまの一首はその例として引いた。青松の作品はいわば、この下の句における解説がない作品と言える。

 

 内面の反芻を許されるようダイヤのキングを持って帰った

(青松輝「弛緩して遅延される」『ポストシェアハウス 1号』)

 ここでは「よう」という接続によって上の句が下の句の理由であるという表示があるにも関わらず、そこに現実的な論理関係は見出だせない。これが青松輝の「分からなさ」に繋がる。

 しかし、先述の石井さんの指摘にあるように青松は読者から逃げようとしているのだろうか? そうは思われない。

 

 テーブル 旅行先から絵葉書が届く経験してみたくない?

(青松輝「テーブル」『第三滑走路 5号』)

 

 毎日が記念日だろう 毎日が命日だろう そう思うろう?

(青松輝「弛緩して遅延される」『ポストシェアハウス 1号』)

 

 青松の連作には問いかけが多い。定義にもよるが、ひとつの連作に一首は入っているように思われる。上の二首では発話の対象に同意を求めている。ここからは発話の対象から逃げようという意思よりは、相手から同意と共感を得たいというモチベーションが感じられる。その「相手」が読者とイコールである可能性が全てではないが、これらの作品がコミュニケーションに開かれていることは間違いない。決して青松は「分からなさ」を提供するという作風ではない。そこには明確な対話の意思がある。

 ではなぜ一見共感を得にくいと思われる作品が多いのか? そもそも「分かる」とはどういうことだろうか、という問いを手がかりに考えたい。この問いの答えとして、「『分かる』とは概念と概念が脳内で結びつくことである」という答えを提案する。ここで注目したいのは、概念が言語であるとは限らないということだ。例えばアルキメデスは風呂の水をヒントに浮力の原理を発見したとき、「エウレカ」と叫び、公衆浴場を飛び出して裸で走り回ったという。このときの「分かった」という叫びは一瞬の出来事であり、その理解が言語によって時間をかけて構築されたわけではない。まさに「閃き」という言葉にふさわしい、イメージとイメージが繋がった一瞬の表れである。その法則を言語化し、さらには数式化するにはその繋がりを精査し、論理化せねばならない。

 

>僕はイメージしか歌にできないのでイメージっていう概念が頻出しちゃうんすよねw

>日々の生活に詩情がなさすぎるので

(2018年8月29日のLINEより)

 

 ここで個人的なエピソードを持ち出すのが評論として公平なのか分からないが、せっかくの立場を生かしてそれを利用してみたい。イメージを歌にするとは、脳内の非言語を言語にすることだ。しかし言語は枠組みであり、目の荒いふるいであり、そのふるいを通すときに引っかからずにこぼれ落ちてしまう事柄がある。この言語ではすくい上げられない部分をすくい上げようとするのが、青松の作品の、あるいはそのベースにある発想の特徴である。

 

 弛緩して遅延される いつまでもしゅわしゅわと溢れだす魔法陣

(青松輝「弛緩して遅延される」『ポストシェアハウス 1号』)

 

 これも一字空けの前後で現実世界における連関を見出すことは難しい。しかし、青松の脳内ではこの二つは繋がっているのではないか。その繋がりは、言語化することができない。だからこその一字空けである。青松の用いる一字空けはそれがシナプスを走る電子信号であり、確かに繋がっている二者を読者に提示する方法であるのではないか。

 また、青松の作品の大きな特徴として、絵文字の使用が挙げられる。

 

 咲いている 移動を終えたあとそこに宿ったものがあって見つめる

🌸

 あれ、それは空間芸術 ゆっくりと停止と発進を繰り返す

(青松輝「弛緩して遅延される」『ポストシェアハウス 1号』)

 

連作の表記はこうなっている。(🌸がどちらの歌に属するのか、あるいはどちらにもしないのか不明なので両方引用した。また、ここでは🌸を使用したが本来は別のフォントの桜の絵文字が使用されている。)この絵文字の存在は非常に示唆的である。絵は記号でありながら、言語よりはイメージをすくい上げるキャパシティが大きい。フェルメールの絵を完全に言語化することは不可能であり、そこには言語化できないものが確かにすくい上げられ記号として提示されている。青松が用いる絵文字はそのようなことと関連しているのだろう。つまり、いわゆる文字よりはまだ非言語をすくいやすい絵文字によって、本来脳内にある繋がりを読者に提示しようとしているのではないか。「完全には言語化できない物を可能な限り言語化するのも、人間が生きていく上で最大の夢だ。」(Q短歌会ブログhttp://qtanka.blog.fc2.com/blog-entry-24.html 2019年5月3日閲覧)と青松は述べている。その方法の模索のひとつの形としての一字空けであり、絵文字なのではないだろうか。

 

 ここまで青松の歌は実はコミュニケーションに開かれているという話をしてきた。言語化できないものを言語によって読者に伝えようというあまりにも困難な試みであることによって、多少のとっつきにくさは仕方がないのだが、それでも読者がその世界に入り込むためにはどうしたらいいのか。

 まず重要なのは、青松の作品は分からないわけではない、ということだ。いわば「分かる」と「分からない」の間のスペクトラム上の一点に、さらにはそれを超えてその作品は存在している。まず「分からないわけではない」ことから見ていこう。

 

 自己主張くりだすあいだじゅうずっと金糸を浴びせかけられている

(青松輝「弛緩して遅延される」『ポストシェアハウス 1号』)

 

 自己主張を続けることとと金糸を浴びせかけられることの繋がりは、言語化できないけれど分かると思うのは自分だけだろうか? 歌会では評をしなければならないことから言語化できる歌が「分かる」とされる。でももっと感覚的に、説明のつかないレベルで自分の頭の中でも繋がっている二者というものがある。青松はそれを拾い上げては提示し、我々読者は自分の中にもその連関が隠されていたことに驚かされ、そしてどこか懐かしいものを再発見したような心地にすらなる。

 そして、分かっても分からなくても青松の歌はおもしろい。

 

 駆け寄って戸が開いたら正座して天界の落語を話し出す

(青松輝「予告編」『第三滑走路 4号』)

「天界の落語」である。それが何かを理解することはもはや必要だろうか? 青松の生み出す新たなコロケーションには驚かされるばかりだ。「コロケーション」とあえて言ったのは、それが最初から決まっていたかのように絶妙に付かず離れずの距離感でありえる組み合わせだと思うからだ。「天界の落語」という組み合わせは(おそらく)今までの日本語には存在しなかった。しかし、一度繋げられてしまえばそれは完璧にふさわしい顔つきでそこに存在する。その日本語におけるギリギリの組み合わせを拾い上げることを青松は非常に得意とし、それにはスリルすら感じられるようなおもしろさがある。青松はエンターテイナーだ。一首の中にもおもしろポイントが何重にも用意されている。それもまた青松によるコミュニケーションへの明確な意思だ。

 それでも「分かる」かどうかを大切にしたい人のためにここで提示できる方法のひとつは、できるだけ多くの青松の作品を読むことである。どの歌人の作品をとっても、連作あるいは歌集を読み進めるうちに暗黙の前提が自己に浸透してきて自然に脳に染み込んでくるような感覚を味わったことはないだろうか。それと同じで、青松が提示する言語化できない脳内の繋がりを理解するために、自分の脳内にもその繋がりを構築するという手がある。いわば青松のシナプスたちの繋がりをコピーするということだ。その方法は要するにディープラーニングである。これは完全に個人的な感想なのだが、人間の脳はよくできたもので、言語のレベルでは分からなくてもその構造をすくい取り、あるとき急に分かるようになる瞬間が訪れる。

 幸い青松輝は多作だ。ネットプリント「第三滑走路」では定期的に12首連作を発表しているし(2019年5月3日現在公開中のものもある)、Q短歌会の機関誌はすぐに迫った文学フリマ東京でポストシェアハウスのブース(キ-50)に委託されている。

 

 ぜひポストシェアハウスと合わせて買ってください。宣伝でした。

評:鈴木えて